このページは「An Anarchist FAQ Webpage」
アナキスト FAQ
From http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/
セクション A - アナキズムとは何か?
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
イントロダクション
セクション A イントロダクション
現代文明は、潜在的な3つの破滅的危機をはらんでいる。
(1) 社会的崩壊の危機
詳しく言うと、貧困、ホームレス、犯罪、暴力、疎外、麻薬やアルコールの乱用、社会的孤立、政治への無関心、人間性の喪失、自助・相互扶助的なコミュニティ構造の衰退などが進んでいること。
(2) 地球環境を破壊する危機
全ての生命が依存しているデリケートな生態系の破壊が進んでいること。
(3) 大量殺戮兵器が拡散する危機
とりわけ核兵器の拡散が進んでいること。
メディアの主流をなす論調や、エスタブリッシュメントの専門家・政治家などのオーソドックスな意見では、「これらの危機は、それぞれに個別の要因を持つ別個の問題である。だから他の問題とは区別して、ばらばらに対処すればよい」という。だが、このオーソドックスな方法が、うまくいっていないのは明白である。問題は、今もどんどん悪化しているからだ。迅速に適切な対処をしなければ、破滅的な戦争、生環境のハルマゲドン、都市の崩壊・狂暴化などの大災厄に直面することになるだろう。
アナキズムは、これらの危機を包括的に理解する方法を提示する。それらに共通する根本原因を探ればよいのだ。この根本原因こそ、資本主義であるか「共産主義」であるかを問わず、文明社会の主な組織全てが持つヒエラルキー権力の原理なのである。したがって、アナキストの分析は、「現代の主な社会組織は、全てヒエラルキーの形態である」という事実から始めなければならない。会社・官庁・軍・政党・宗教団体・大学などは、ピラミッド構造のトップに権力が集中するように組織されている。このような、ヒエラルキーに内在する権力関係が、個人や社会・文化に対していかに悪い影響を与えるかを、これから示していきたいと思う。このFAQの前半(セクションA-E)では、ヒエラルキー的な権力とその害について、アナキストによる詳細な分析を示していく。
ここで注意したいのは、「アナキズムは、単なる否定的・破壊的な現代文明批判である」と考えるべきではないということだ。単なる否定ではない。一例をあげれば、アナキズムは自由な社会を提案している。エマ=ゴールドマンは、「アナキストの課題」とでも呼ぶべきことを、次のように表現している。『今日、私たちが直面する問題は、他者と共にありながら、いかに自分自身になるかということ、全人類との共感を深く感じながら、なおかつ、自分の個性を失わずに保って行くにはどうしたらよいか、ということだ。』[Red Emma Speaks, pp.158-159]
言い替えれば、他人を犠牲にしないで、個人の潜在的な個性を開花させるような社会は、どうしたら創造できるのか、ということである。トップダウンによって支配される中央集権的ヒエラルキー構造ではこれを実現できない。ベンジャミン=タッカーを引用すれば、人間性に関わる問題は『個人や、個人の自発的連合によって運営される』社会を構想しなければならないのである [Ben Tucker, Anarchist Reader, p.149] 。FAQの後半(セクションI、J)では、このように「ボトムアップ」の方法で社会を組織する、アナキズムのポジティブな提案について述べる。アナキズムの建設的な真髄のいくつかについては、FAQの前半においても見ることが出来るだろう。マルクス主義と右翼「リバタリアニズム」は社会問題に対する誤った解決策を提起している。そうした解決策に対するアナキストからの批判(それぞれセクションFとセクションH)の中にも、アナキズムの建設的な核心を見ることが出来る。
クリフォード=ハーパーは、次のように言う。『良い考えは常にシンプルだが、アナキズムもきちんと考えれば、とてもシンプルである。人間は、命令されて生きるより、権力から自由に生きられる時がベストなのだ。』[Anarchy: A Graphic Guide, p.vii] 個人(個性)を最大限に延ばすため、つまり社会の自由を追求するために、アナキストは「人々を抑圧するような全ての組織」の解体を望んでいるのである。
全てのアナキストは、皆、自由な社会を求めている。それは、自由な人間性の成長の前に立ち塞がる、強圧的な政治組織・社会組織からまったく自由になる社会なのである。[Rudolf Rocker, Anarcho-Syndicalism, p.16]
そうした組織は全てヒエラルキーなのであり、組織の抑圧的な性格は、そのヒエラルキー構造に由来するということを、これから見ていこう。
アナキズムは社会・経済・政治の理論(セオリー)なのであって、イデオロギーではない。この違いはとても重要である。基本的に、セオリーは「あなたが考えを持っている」ことを意味するのだが、イデオロギーは「あなたが考えに所有される」ことを意味している。アナキズムは一つのまとまった思想である。しかし、常に進化・流動する情況に対してフレキシブルなのであって、新しいデータに照らして柔軟に修正や変更される。社会が発展したり変化したりすれば、アナキズムもまた、発展し変化するのである。それに対しイデオロギーは、人々がドグマチックに信仰している硬直した一連の思想であって、いつも現実を無視したり、正しいとされるイデオロギーに合うように「現実」を変えたりしているのである。こうした、ベッドの大きさに無理矢理人の身長を合わせるような「硬直した」考えこそが、圧政や矛盾の源なのだ。これはレーニン主義でも、オブジェクティビズムでも、「リバタリアニズム」でも、どんな種類のイデオロギーであっても全て同じである。ドクトリンの名の下に、真の個人を破壊するのだ。しかし、それは支配エリートの利益には、だいたいかなうようになっている。ミハイル=バクーニンは言う。
これまでの人類の歴史では、多くの貧しい人々が、冷酷な抽象概念の名のもとに血の犠牲に供せられてきた。すなわち、神・国・国家権力・民族の栄光・歴史的権利・司法権・政治的自由・公共の福祉などがそれである。[God and the State, p.59]
ドグマは、硬直して動かないことにおいては、死んでいるようなものである。宗教的なドグマでも非宗教的なドグマでも、それらは大抵、死んだ「預言者」の業績なのだが、弟子たちが偶像に祭り上げ、石のように不変なものにしてしまうのだ。アナキストは、生きているものが死んだものを埋葬するべきだと思っている。そのことで、生きている者がよりよく生きることができるのだ。死んだ人のことは生きている人が決めるべきであって、その逆ではない。イデオロギーは、批判的な考えに対するネメシス(復讐の女神)であり、自由に対するネメシスである。それは、自分で考えることの「重荷」から私たちを解放してくれるような「正解」や、法則・原則で一杯の教典を与えてくれるというわけなのだ。
このFAQを作って、「正解」や新しい「教典」を与えようという意図は、私たちにはない。私たちは、過去から現在までのアナキズムについて説明し、その現在の形態により多くの焦点を当て、今、なぜ私たちがアナキストになったかを説明するだけだ。このFAQは、あなた自身に自分で分析し・考えてもらうことが目的なのである。もし、あなたが新しいイデオロギーを探しているのなら、申し訳ないがアナキズムはあなたに向かない。
アナキストが現実的で実際的になろうと努力しているからといって、私たちは「物わかりがいい」わけではない。物わかりがいい人達は、「専門家」や「権威」が「正しい」と言えば、それを無批判に受け入れてしまう。だから、いつまでも奴隷のままなのだ。バクーニンは書いている。
人は、自己の信念に従い、自分の深い確信から行動し、話すときが最も強いものである。したがって、周りの状況がどうであろうと、自分が何を言い、何をなすべきかはわかっているのだ。たとえ倒れることがあっても、自分自身や自分の主張を恥じることはない。』[Albert Meltzer, I couldn't Paint Golden Angels, p.2で引用]
バクーニンが述べているのは、独立した精神の強さ、つまり自由の強さである。私たちは「物わかりがよくなる」ことなんか勧めない。他人が言うことを信じるのではなく、自分自身で考え、自分自身で行動することをお勧めする!
最後に、言うまでもないことだが、これがアナキズムの全てではない。ここに書いてあることに同意しないアナキストも多いであろう。だが、これは読者が自分で考えてくれることを期待して書いたものである。私たちはアナキズムの基本的な考えや、その考えを応用して私たちが分析したことを示したいと思っているにすぎない。しかしながら、応用の仕方についてあちこち同意できない所があったとしても、私たちが表明している考えの核心は、全てのアナキストが賛同してくれるものと確信している。
Attachments
Comments
A.1 アナキズムとは何か?
アナキズムとは、アナーキー、つまり『支配者や君主のいない状態』の創造を目指す政治思想である [P-J Proudhon, What is Property, p.264]。言い替えれば、「個人が平等な立場で自由に協力する社会」の創造を目指す政治思想である。アナキズムは、国家による支配であれ資本家による支配であれ、ヒエラルキー支配のあらゆる形態に反対する。それは不必要なだけではなく、個人や個性にとって有害なのである。
アナキスト、L=スーザン=ブラウンの言葉:
アナキズムは、一般には「暴力的な反国家運動」だと理解されている。だが、アナキズムは単なる「政府権力への反対」という意味を越えた遙かに深いニュアンスを持っているのだ。アナキストは、「社会には権力や支配が必要だ」という考え方に反対なのである。そして、そのかわりに協同的で反ヒエラルキー的な社会・経済・政治の組織形態を提唱するのである。[The Politics of Individualism, p106]
しかし、「アナキズム」や「アナーキー」が、最も誤解されている政治思想であることは間違いない。一般的にこれらの言葉はカオスや無秩序の意味で使われているし、そのため当然アナキストも、カオスや「弱肉強食の法則」への回帰を目指しているものとも思われている。
こうした誤解のプロセスは、歴史的にも例がないわけではない。例えば、一人による支配(専制支配)が必要と考えられていた時代や国があった。そこでは、「共和主義」や「民主主義」という言葉が、まさに「アナーキー」という言葉と同じように「無秩序」や「混乱」を意味するものとして使われてきた。既得権があって現状を維持したい人々は、「現在のシステムに反対したってうまくいくわけはない。新しい社会の形態なんてカオスになるに決まっている」と言いたいのである。それについて、エンリコ=マラテスタは次のように表現している。
政府の支配は必要であり、無政府状態は無秩序と混乱をひきおこすだけだ、と皆が考えているのだから、無政府を意味するアナーキーが、無秩序に聞こえるのは当然で、無理もないことだ。[Anarchy, p12]
アナキストたちは、「アナーキー」に対するこのような常識を変えたいと願っている。人々に、政府や他のヒエラルキー的な社会関係が、有害で不必要であることをわかってもらいたいのだ。
考えを変えよう。政府の統治は不必要なだけではなく、非常に有害であるということ、アナーキーという言葉は無政府を意味するが、それが誰にとっても有意義な言葉になるということを、人々に悟らせよう。それは、自然な秩序、個人の必要と全員の利益の一致、完全な団結のなかでの完全な自由を意味するのだ。[前掲書, pp.12-13]
このFAQは、アナーキーの意味やアナキズムについて一般に普及している誤った考えを変えるプロセスの一部なのである。
A.1.1 「アナーキー」は何を意味するのか?
「アナーキー」という言葉は、「ギリシア語」で「not」や「without」を意味する接頭辞「a」と、「支配者」「指導者」「長」「責任者」「指揮官」を意味する「archos」を組合わせた言葉である。ピョトール=クロポトキンは次のように述べている。『アナーキーは「権力に反対する」という意味のギリシア語に由来する。』 [Anarchism, p. 284]
ギリシア語でanarchosとanarchiaは「政府を持たないこと」もしくは「政府が無い状態」を意味すると受け取られることが多い。お分かりだろうが、アナキズムの厳密で元々の意味は、単に「政府がない」というだけではない。An-archyは「支配者がいない」もしくはもっと一般的に「権力がない」という意味であり、この意味でアナキストはこの言葉を使い続けてきた。例えば、クロポトキンはアナキズムは『資本だけでなく、資本主義権力の基盤である法律・権力・国家を攻撃する』と主張している[前掲書, p. 150]。アナキストにとって、アナーキーは、『必ずしも、一般に思われているような秩序がないという意味ではなく、支配がない』ことを意味している [Benjamin Tucker, Instead of a Book, p. 13]。従って、デヴィッド=ウェイクは次のように上手くまとめているのである。
アナキズムは、あらゆる権力・君主・支配・ヒエラルキーを否定し、それらを解消しようとする社会・政治思想をまとめたものだと理解できよう。従って、アナキストの批判は確かに政府(国家)への批判が中心となるが、単なる反国家主義ではないのだ。[Reinventing Anarchy, p.139]
したがって、アナキズムは、単なる反政府や反国家の運動というより、主にヒエラルキーに反対する運動なのである。なぜか?それは、ヒエラルキーが権力を構成する具体的な組織形態だからだ。国家はヒエラルキーの最高形態だから、アナキストが反国家なのは当然だが、反国家だけではアナキズムの定義としては不充分なのである。これは、本当のアナキストは国家だけではなく、ヒエラルキーのあらゆる形態に反対するということを意味している。ブライアン=モリスを引用しよう。
アナーキーという言葉はギリシャ語に由来し、本質的には「支配者がいない」ことを意味する。アナキストは、あらゆる政府形態や強制的権力、あらゆるヒエラルキーや支配の形態を拒絶する人々である。従って、メキシコのアナキスト、フローレス=メーゴンが、国家・資本・教会の「邪悪な三位一体」と呼んだものに反対しているのである。だから、アナキストは、資本主義と国家に反対するだけでなく、あらゆる宗教権力形態にも反対なのである。しかし、アナキストは同時に、様々な手段を使って、アナーキーの状態を確立したりもたらそうとしたりしている。アナーキーの状態とは、抑圧的諸制度のない分権型社会、自発的結びつきの連合を通じて組織された社会なのである。["Anthropology and Anarchism," pp. 35-41, Anarchy: A Journal of Desire Armed, no. 45, p. 38]
このような文脈で「ヒエラルキー」に言及するのは最近の傾向である。プルードン・バクーニン・クロポトキンらの古典的アナキストたちは、この言葉をあまり使わなかった(彼らはたいてい「権力」(Authority)という言葉を用いたが、これは「権力主義・権威主義」(Authoritarian)を短縮したものである)。しかし、彼らがヒエラルキーに反対し、力の不平等や個人の特権に反対する哲学を持っていたことは、彼らが書いたものを読めばすぐに分かる。バクーニンはこのことについて、「公」権力を攻撃し「自然な影響」を擁護したときにも語っているし、次のようにも言っている。
仲間を抑圧することが出来ないようにしたいか?それならハッキリさせるべきだ。誰も権力(power)を持つべきではないのだ。[The Political Philosophy of Bakunin: Scientific Anarchism, p.271]
ジェフ=ドラハン(Jeff Draughn)は次のように書いている。『反ヒエラルキーという広範な概念は、これまで革命運動(project)では常に表には出てこなかった。最近になって初めて、詳しく研究され、使われるようになったのである。しかし、ギリシア語の「アナーキー」の語源にもこの意味が見られることは明らかである。』 [Between Anarchism and Libertarianism: Defining a New Movement]
アナキストは、ヒエラルキーに反対しているのであって、国家や政府だけに反対しているのではないということを、私たちは強調したい。ヒエラルキーには、政治的関係だけではなく、権力的な経済関係や社会関係、特に私有財産と賃労働に関係するものも含まれる。これはプルードンの以下のような主張にも見られる。『資本は、政治分野における政府と似ている。資本主義の経済思想・政府や権力の政策・教会の神学思想はまったく同じ思想であり、様々な形で繋がっている。それらの一つを攻撃することは、それらすべてを攻撃することと同じである。資本が労働に対して行うこと・国家が自由に対してすること・教会が魂に対して行うこと、この絶対主義の三位一体は、哲学的にだけでなく、実践的にも有害なのである。民衆を抑圧する最も有効な手段は、民衆の肉体・意思・理性を同時に奴隷化することなのである。』 [Max Nettlauによる引用, A Short History of Anarchism, pp.43-44] エマ=ゴールドマンは以下のように資本主義に反対している。資本主義は『人間が自分の労働を売らなければならない』という意味である。つまり、『その人の意向と判断は、主人の意思に従属する』という意味なのだ [Red Emma Speaks, p. 50]。40年前、バクーニンは、次のように論じて同じことを指摘していた。現行システム下では、賃金と引き換えに資本家に対して『労働者は自己の人格と自由を一定時間売却している。』 [前掲書, p.187]
したがって「アナーキー」は、単なる「無政府」だけではなく、あらゆる形態の権力的組織やヒエラルキーが存在しないことを意味するのである。クロポトキンの言葉を挙げよう。『社会におけるアナキズムの起源は、ヒエラルキー組織や権威主義的社会概念への批判、そして、人類の進歩運動に見られる諸傾向の分析(にある)。』 [Kropotokin's Revolutionary Pamphlets, p.158] マラテスタにとって、アナキズムは『社会的不公正に対する道徳的反抗のなかで生まれた。』そして、『社会的病理の原因』は、『資本主義的財産と国家』だと考えられる。抑圧されている人々が『国家と財産双方を転覆しようとした』とき、『アナキズムはそのときに生まれたのだ。』 [Errico Malatesta: His Life and Ideas, p.19]
つまり、アナーキーは純粋に反国家であるという主張は、この言葉を、そして、アナキズム運動がこの言葉を使用してきた方法を誤解しているのである。ブライアン=モリスは次のように論じている。『古典的アナキストの著作を吟味すればまったく明白になるのだが、この(単に国家に反対するのだという)限定されたヴィジョンなど一度もなかったのだ。アナキズムは、あらゆる形態の権力・搾取に常に挑戦し、国家に対してだけでなく、資本主義と宗教にも同じぐらい批判的だったのである。』 [前掲書, p. 40]
アナーキーはカオスを意味するものではないし、アナキストはカオスや無秩序を希求しているのではない、ということをはっきり言っておかなければならない。そうではなく、私たちは、個人の自由と、自発的な協力に基づく社会を作りたいと考えている。言い替えれば、権力からのトップダウンによって負わされる無秩序ではなく、ボトムアップによる秩序を求めているのである。
A.1.2 「アナキズム」は何を意味するのか?
クロポトキンを引用すると、アナキズムは『政府のない社会主義システム』である [Kropotokin's Revolutionary Pamphlets, p.46]。言い替えれば『人による人の搾取と抑圧の廃止、つまり、私有財産(すなわち資本主義)と政府の廃絶である。』[Errico Malatesta, "Towards Anarchism," p.75]
ゆえに、アナキズムは、政治的・経済的・社会的なヒエラルキーのない社会の創造を目指す政治思想である。支配者がいない「アナーキー」は実現可能であり、それは「個人の自由」と「社会の平等」を最大にする社会システムである。自由と平等というゴールは「互いに自立し合うこと」である、とアナキストは考えているのだ。また、バクーニンの有名な金言に次のようなものがある。
社会主義なき自由は、特権と不公正である。また、自由なき社会主義は、奴隷制度と暴政である。[The Political Philosophy of Bakunin, p.269]
人間社会の歴史がこの点を証明している。平等なき自由は強い者だけの自由だし、自由なき平等は、奴隷制度を正当化する口実以外の何物でもない。
一口にアナキズムといっても、そこには様々なタイプがあるが (個人主義的アナキズムから共産主義的アナキズムまで、セクションA.3に詳述)、その核心には二つの共通点がある。政府への反対と資本主義への反対がそれだ。個人主義的アナキスト、ベンジャミン=タッカーは言う。アナキストは『国家の廃止と不当な利得の廃止を主張する。人による人の支配も、人による人の搾取もやめなければならない。』 [Eunice Schuster, Native American Anarchism, p.140で引用] アナキストは皆、利潤・利息・地代家賃を不当な利得(つまり搾取)とみなしており、政府や国家と同様に、それを作り出す状況に反対している。
L=スーザン=ブラウンはより広い意味で次のように言う。『アナキズムの中にある連帯の精神は、ヒエラルキーと支配に対する全般的な批判であり、個人の自由のために喜んで戦う意志の現れである。』 [The Politics of Individualism, p.108] 国家や資本家の権力に服従させられていては、人は決して自由にはなれないとアナキストは考えているのだ。ヴォルテリーン=デ=クライアーは以下のように要約している。
アナキズムは、次のような社会の可能性を教えてくれる。生活必需品が十全に万人に与えられ、精神と肉体の完全な発達の機会が万人に与えられ続ける社会である。現在は、富の生産と分配の組織が不平等になっているが、これは、最終的に完全に破壊されねばならず、個々人に労働の自由を保証するシステムに置き換わらねばならない。労働の自由とは、労働の産物の10分の1を税金として貢ぐことになる主人をまず最初に捜す自由などではない。労働の自由は、生産資源と生産手段に自由に接することを保証するのである。盲目的服従を止めて、不満を言おう。無意識の不満を止めて、意識的に不満を持とう。アナキズムは抑圧の意識をかき立て、よりよい社会を求めた願望を惹起し、資本主義と国家に対して止む事なき戦争が必要だという感覚を奮起させようとしているのである。 [Anarchy! An Anthology of Emma Goldman's Mother Earth, pp. 23-4]
よって、アナキズムは、アナーキー、つまり「支配者がない」という原則に基づいた社会の建設を提唱する政治思想なのである。そのため、『社会主義者と同じように、アナキストも次のように考える。土地・資本・機械の私的所有の時代は終わった。私的所有は消え去る運命にある。生産に必要な手段は社会の共有財産となり、生産者の手によって運用されなければならない。政府の機能は必要最小限に縮小するのが、社会の政治組織として望ましい在り方である。社会の最終目的は、政府の機能をゼロにもっていくこと、すなわち、政府のない社会、アナーキーまでもっていくことである。』[Peter Kropotokin, 前掲書, p.46]
したがって、アナキズムはポジティブでもあり、ネガティブでもあるのだ。それは、現在の社会を分析・批判すると同時に、新しい社会のヴィジョン、現在の社会が否定している人間の欲求を最大限保証する社会ヴィジョンの可能性を示しているのである。こうした欲求とは、人間にとって最も基本的な自由・平等・連帯であるが、これらについてはセクションA.2で論じる。
アナキズムは批判的な分析を希望へと結びつける。バクーニンは「破壊への衝動は創造への衝動である」と指摘している。今の社会の悪い点を理解せずに、より良い社会の建設は出来ないのだ。
A.1.3 アナキズムはなぜリバータリアン社会主義とも呼ばれるのか?
「アナキズム」という言葉にはネガティブな響きがあるので、ポジティブで建設的な面を強調するために、これまで多くのアナキストが別の言葉を用いてきた。最もよく使われたのが「自由社会主義」「自由共産主義」「リバータリアン社会主義」「リバータリアン共産主義」だった。アナキズムとリバータリアン社会主義・リバータリアン共産主義は、アナキストにとっては事実上、同じ意味である。
「アメリカン=ヘリテイジ辞典」を引いてみよう。
リバータリアン: 思考と行動の自由を信じる人、自由な意志を信じる人。
社会主義 : 生産者が、政治権力と生産・流通手段の両方を所有する社会システム。
上記の二つの定義を、一つにすると以下のようになる:
リバータリアン社会主義: 思考と行動の自由・自由な意志を信じ、生産者が、政治権力と生産・流通手段の両方を所有する社会システム。
(辞書は政治思想には無知であるという、いつものコメントをするべきだろうが、ここでは辞書を使って、「リバータリアン」は「自由市場」資本主義を意味しないし「社会主義」は国家所有を意味しないということを示しただけである。他の辞書では別の定義をしているかもしれない。特に社会主義については。辞書による定義について政治的に不毛な果てしない道楽をここでするつもりはない。したい人はご自由にどうぞ。)
ところが、アメリカで「リバタリアン党」が作られて以来、「リバータリアン社会主義」という言葉は矛盾している、と考える人が多くなったようだ。多くのリバタリアン党員は、アナキストは「リバタリアン思想」に「社会主義」という「反リバタリアン」思想を結びつけて「社会主義」思想を受け入れ易くしようとしている、と考えている。つまり、アナキストが「正当な所有者」から「リバータリアン」の看板を盗もうとしている、と言いたいらしい。
これほど事実からかけ離れた言いがかりはない。アナキストは、自らの思想を表現するために、1850年代から「リバータリアン」という言葉を使い続けている。1858年から1861年まで、革命的アナキストのジョセフ=デジャックはニューヨークで「ル=リベルテール、社会運動ジャーナル」を発行しており、その一方で、「リバータリアン共産主義」という言葉の使用は、1880年11月にフランスのアナキスト会議がこの言葉を採用したときにまで遡ることができる [Max Nettlau, A Short History of Anarchism, p.75 and p.145]。「リバータリアン」という言葉がさらによく使われるようになったのは、反アナキストの法律を回避するため、そして「アナーキー」という言葉の否定的なイメージを避けるために1890年代のフランスで使われてからである(例えば、1895年に、セバスチャン=フォールとルイズ=ミッシェルはフランスで ル=リベルテール紙を発刊した)。それ以来、特に米国以外では、リバータリアンは、アナキストの思想や行動と常に結び付けて使われてきたのである。最近の米国の例を挙げれば、1954年7月にアナルコサンジカリズムを堅持するリバータリアン連盟が結成され、1965年まで存続していた。それに対し、「リバタリアン」党が登場したのは1970年代初頭であり、それは、アナキストが自分の政治思想を述べるために初めてその言葉を使ってから100年以上後(「リバータリアン共産主義」が採用されてから90年ほど後)である。言葉を「盗んだ」のはアナキストではなく、そっちの党の方である。後のセクションBで、(リバタリアン党が希求している)「リバタリアン資本主義」という思想がいかに矛盾しているかを示そう。
セクションIでは、「リバータリアン社会主義」の所有システムだけが、個人の自由を最大にすることを説明する。言うまでもないが、現在「社会主義」と呼ばれている国家所有は、アナキストに言わせれば社会主義でも何でもない。セクションHでは、国家の「社会主義」は資本主義の一変種であって、社会主義的な内容を少しも持たない代物であることを詳しく述べよう。
「リバータリアン」という言葉がアナキズムに由来していることを考えれば、我々の思想と殆ど共有する部分のないイデオロギーにこの言葉を盗まれて喜んでいるアナキストは殆どいない。米国では、マレイ=ブクチンが述べているように、『「リバータリアン」という言葉それ自体は、確かに、問題となっている。とりわけ、「純然たる資本主義」や「自由貿易」と、戦闘的運動を伴う反権力主義イデオロギーとを見かけ上同じにしているのである。リバタリアン運動がこの言葉を創ったわけではない。19世紀のアナキズム運動から盗んだのだ。従って、この言葉は反権力主義者によって再生されねばならない。反権力主義者は、金儲け主義と自由を同一視している個人的利己主義者を代弁するのではなく、支配されている人々全体を代弁しようとしているのである。』つまり、米国のアナキストは、自由市場右翼『に変質させられた伝統を実際に取り戻』さねばならないのである [The Modern Crisis, pp. 154-5]。そのようにするために、我々は、自分達の思想をリバータリアン社会主義と呼び続けるのである。
A.1.4 アナキストは社会主義者なのか?
イエス。どんな種類のアナキズムも、全て資本主義に反対である。資本主義が「支配と搾取」を基本としているからだ(セクションB、C参照)。『人間は、生産物の上前をはねる奴隷主がいないと、共に働くことは出来ないという考え』に、アナキストは反対する。アナキストの社会では『実際の労働者は自分たちの規律を持ち、物事はいつ・どこで・どのようになされるべきかを自分たちで決められる』と考えられている。そうすることによって、労働者たちは『資本主義におけるひどい奴隷状態』から解放されるのである。[Voltairine de Cleyre, Anarchism, p.32 and p.34]
(ここで強調しなければならないが、アナキストは、封建主義・ソヴィエト型「社会主義」--国家資本主義と呼んだ方が良いのだが--・奴隷制度といった支配と搾取に基づいたあらゆる経済形態に反対である。ここで資本主義を集中して論じるのは、それが現在世界を支配しているものだからに過ぎない。)
プルードン・バクーニンなどの社会的アナキストと同様、ベンジャミン=タッカーのような個人主義者たちも、自分たちは「社会主義者」だと主張している。その理由について、クロポトキンは古典的エッセイ「近代科学とアナキズム」で次のように述べている。『社会主義が幅広く包括的な真の意味で--資本による労働の搾取を廃絶する試みだとして--理解されていた間、アナキストはその時代の社会主義者と手に手を取って行進していた。』[Evolution and Environment, p. 81] タッカーの言葉を引用すれば、『社会主義の根底には、労働者は自身の労働を所有する立場にいなければならないという主張があり』、『二つの社会主義学派、国家社会主義もアナキズムも』どちらもこの主張を認めている [The Anarchist Reader, p. 144]。つまり、「社会主義者」という言葉の元々の意味には、『自分の作った物は自分の物である、という個人の権利を信奉する人々』が含まれているのである[Lance Klafta, "Ayn Rand and Perversion of Libertarianism," in Anarchy: A Journal of Desire Armed, no.34] 搾取(や高利貸し)に対する反対は、真のアナキストなら皆が共有しているものであり、だから、アナキストは社会主義の旗の下に身を置いているのである。
大部分の社会主義者にとって、『自分の労働の果実を確実に盗まれないようにする唯一の方法は、労働の手段を所有することである。』[Peter Kropotkin, The Conquest of Bread, p. 145] この理由から、例えばプルードンは労働者協同組合を支持し、次のように述べていた。『協同組合にいる全ての人は、その事業の所有物を全面的に共有する。』なぜなら、『経営に参加する』ことで、『集団の力で生み出されたもの(つまり、剰余)が、少数経営者の利益の源泉にならなくなる。全労働者の所有となるのである。』[The General Idea of the Revolution, p. 222 and p. 223] つまり、真の社会主義者は、資本による労働の搾取を終わらせることを望むだけでなく、生産者が生産手段を所有し管理する(強調しなければならないが、これにはサービス提供をしている仕事場も含まれる)社会を望むのである。アナキストと他の社会主義集団とでは、生産者がこのことを行う手段について見解が異なっているが、この願望は共通のままである。アナキストは、管理は労働者が直接行い、所有は労働者協会やコミューンのどちらかが行うことが望ましいと考えている(アナキズムの種類については、セクション A.3を参照)。
それ以上に、アナキストは資本主義を、搾取的であると同時に権威主義だとして拒絶するのである。資本主義の下で、労働者は生産過程の中で自分自身を統治していないし、自分の労働の産物に対する管理もしていない。こうした情況は、万人に平等な自由に基づいてはいないし、非搾取的になる可能性もない。だから、アナキストは反対するのである。この観点はプルードン(タッカーとバクーニンを刺激した)の著作に最も良く見ることが出来る。この著作で、彼はアナキズムについて次のように主張している。アナキズムでは『あらゆる場所で資本主義と所有(proprietary)による搾取が終わり、賃金システムが廃絶される。』なぜなら、『労働者は、所有者-資本家-興行主に単に雇われるか、参画するかのどちらかである。最初の場合、労働者は隷属し搾取される。服従的な社会地位が変わることはない。第二の場合、労働者は人間・市民としての自分の尊厳を回復し、生産組織を結成するのである。労働者は以前は奴隷以外の何者でもなかった。躊躇してはならない。我々に選択肢などないのだ。労働者の間で「組織」を作らねばならないのである。それがなければ、労働者は支配される側とする側との関係が続き、主人と賃金労働者という二つのカーストを保証することになる。自由で民主的な社会にとってこのカーストは不快なのである。』[前掲書, p. 233 and pp. 215-216]
したがって、アナキストは皆、反資本主義者である(『労働が生み出す富を労働が所有するならば、資本主義はなくなるだろう』 [Alexander Berkman, What is Anarchism?, p. 44])。例えば、最も自由主義の影響を受けたアナキスト、ベンジャミン=タッカーは、自分の思想を『アナキスティック社会主義』と呼び、資本主義を『高利貸し、利子・家賃・利潤の受取人』に基づいたシステムだとして非難する。資本主義ではない自由市場アナキズム社会では、『労働が、自然な賃金と全ての生産物を獲得するので』資本家は不必要な余計者になると、タッカーは考えた。その経済は、消費組合・職人・農民間の生産物の自由交換と、人民相互銀行を基礎にしている。エゴイストの第一人者マックス=シュティルナーでさえ、資本主義とその「幽霊たち(spooks)」を軽蔑していた。シュティルナーに言わせれば、私有財産・競争・労働の分業などの観念は、神聖なものとして崇められる幽霊に過ぎなかった。
だから、アナキストは自分たちをある種の社会主義者、リバータリアン社会主義者と考えているのである。個人主義アナキストのジョセフ=A=ラバディは次のように言う。(タッカーとバクーニンも繰り返し述べている)
アナキズムは社会主義ではないと言われているが、これは間違いである。アナキズムは自由意志に基づく社会主義(Voluntary Socialism)なのである。社会主義には2種類あるのだ。強権的(archistic)社会主義と無強権的(anarchistic)社会主義、権力主義的社会主義とリバータリアン社会主義、国家の社会主義と自由な社会主義である。どんな社会改良の提案も、個人に対する圧力や外部意志の力を増やすか減らすかのどちらかになる。増やすのが強権的(archistic)、減らすのが無強権的(anarchistic)なのだ。[Anarchism: What It Is and It Is Not]
ラバディは幾度も次のように述べていた。『全てのアナキストは社会主義者であるが、全ての社会主義者がアナキストであるわけではない。』従って、ダニエル=ゲランは次のように述べているのである。『アナキズムは、実際、社会主義の同義語なのだ。アナキストはまず第一に社会主義者であり、その目的は人間による人間の搾取を廃絶することである。』[Anarchism, p. 12]このコメントは、社会派であろうと個人主義派であろうと、アナキズム運動史を通じて何度も繰り返されている。実際、ヘイマーケットの犠牲者、アドルフ=フィッシャーも、ラバディと殆ど同じ言葉を使って同じ事実を表現している。『全てのアナキストは社会主義者であるが、全ての社会主義者は必ずしもアナキストではない。』同時に、アナキズム運動について次のように認めていた。運動は『二つの派閥に分かれている。共産主義アナキストと、プルードンや中産階級のアナキストである。』[The Autobiographies of the Haymarket Martyrs, p. 81]
社会的アナキストと個人主義的アナキストでは、多くの問題で意見を異にしている。たとえば、自由市場(free market)が、自由(lieberty)を最大にする最高の手段なのかどうか、等だ。しかし、資本主義に反対であること、アナキストの社会は、賃金労働ではなく協同労働(associated labour)に基づかなければならないことの二点では、一致している。協同労働だけが、労働時間中の個人に対する圧力や外部意志の力を減らす。そのような労働の自主管理こそが、本当の社会主義の理想の姿なのである。この観点はジョセフ=ラバディが次のように論じていたときにも見ることが出来る。労働組合は『組織を作ることで自由を獲得する良い例である。』そして、『組合無しには、労働者は、組合があるときよりも遙かに雇い主の奴隷になるのである。』[Different Phases of the Labour Question]
だが、時の流れと共に言葉は変化してしまう。今日では、「社会主義」と言えば、自由と「本来の社会主義の理想」を否定する、国家の社会主義を意味するものになってしまった。ノーム=チョムスキーがこの問題について言っている言葉に、アナキストなら誰もが同感であろう。
もし、左翼がボルシェビキを含むものと解されるのなら、私は左翼とはきっぱり決別しよう。レーニンは、社会主義の最大の敵の一人だったのだ。[Marxism, Anarchism, and Alternative Futures, p. 779]
アナキズムは、マルクス主義・社会民主主義・レーニン主義にずっと反対し続けてきた。レーニンが権力を握るよりはるか以前に、バクーニンは『赤い官僚政治』の危険について、マルクスの弟子たちに警告している。もし、マルクスの国家的社会主義思想が実現すれば、それは『あらゆる専制政府の中で最悪のもの』になるであろう、と。
しかしアナキストは(基本的には)社会主義者なので、マルクス主義と共通の考えもいくつかある。(レーニン主義と共通なものは全くない)バクーニンとタッカーは、マルクスの資本主義に対する分析・批判や、労働価値説を認めている。(セクションC参照) マルクス自身はマックス=シュティルナーの著作、唯一者とその所有に大きな影響を受けていた。マルクスが「粗野」な共産主義と呼んだものや、国家の社会主義に対する見事な批判が、その本には書かれているのである。マルクス主義者の運動の中にも、社会的アナキストの見解(その中でも特にアナルコサンジカリスト)によく似た要素が存在する。例えば、アントン=パネクーク、ローザ=ルクセンブルク、ポール=マティックなどの人達は、レーニンとは全く異質だ。カール=コルシュなどは、共感を持ってスペインのアナキズム革命について書いている。マルクスからレーニンまで多くの連続した繋がりがあるが、マルクスからもっとリバータリアン的なマルクス主義者への連続的繋がりもある。こうしたリバータリアン的マルクス主義者は、レーニンとボルシェヴィズムを厳しく批判しており、その思想は平等者の自由連合を求めたアナキズムの願望に近いのである。
以上見てきたように、アナキズムは基本的に社会主義である。ただし、今日、一般的な意味で使われる「社会主義」(つまり国家統制の社会主義)とは、真っ向から対立する社会主義なのである。アナキストは、多くの人々が「社会主義」という言葉に関連させている「計画経済」の代わりに、個人・労働現場・共同体間の連合と協力を提唱し、国家資本主義の変種である「国家」社会主義に反対する。国家社会主義では『全ての人が賃金受給者になり、国家だけが賃金支払者になるのだ。』[Benjamin Tucker, The Individualist Anarchists, p. 81] 従って、アナキストは、『巨大な社会党内の社会民主主義党派が、現在、社会主義を資本家としての国家という考えに還元させようとしている』が、それと同じだとしてマルクス主義を拒絶するのである [Peter Kropotkin, The Great French Revolution, vol. 1, p. 31]。マルクス主義が「中央指令型経済」・国家社会主義や国家資本主義を社会主義と同一視していることに対するアナキストの反論は、セクションHで論じる。
国家社会主義者とのこうした違いのため、そして、混乱を避けるため、大部分のアナキストは自分を単に「アナキスト」と呼んでいるのである。アナキストが社会主義者であるなど当たり前だと考えているのである。しかし、米国のいわゆる「リバタリアン」右翼の出現とともに、資本主義賛同者の中に、自分自身を「アナキスト」だと呼ぶようになった人々がいる。このために、ここでこの点を詳しく論じたのである。歴史的にも論理的にも、アナキズムは反資本主義、つまり社会主義なのであって、これは全てのアナキストが同意していることなのだと強調しておきたい(何故「アナルコ」キャピタリズムがアナキズムではないのかに関する十全な議論は、セクションFを参照して欲しい)。
A.1.5 アナキズムはどこから生まれて来たのか?
アナキズムはどこから生まれて来たのか。それに答えるには、ロシア革命(セクションA.5.4参照) で、マフノ主義運動に参加した人々が作った「リバータリアン共産主義者の組織綱領」を引用するのが最も良いだろう。
労働者の奴隷化が生み出した階級闘争、そして、労働者の自由への熱望。これらが抑圧の中でアナキズム思想を生んだ。アナキズムは、階級原理と国家原理に基づく社会システムを全否定し、そのシステムを労働者が自主管理する自由な非国家主義社会で置き換える思想である。
従って、アナキズムは知識人や哲学者の抽象的考えからは生まれたのではない。労働者による資本主義との直接闘争から、労働者のニーズと必要物から、自由と平等への熱望から生まれたのである。労働者大衆の生活と闘争が英雄的な時代に、この熱望は特に生き生きしたものになる。
傑出したアナキズム思想家、バクーニンやクロポトキンといった人々がアナキズム思想を発明したわけではない。彼らは、大衆の中にアナキズム思想を見い出し、自分の長所である思考と知識を使ってその思想を書き記し、広める手助けをしただけなのである。[pp.15-16]
アナキスト運動一般がそうだが、マフノ主義者も労働者階級の大衆運動であり、1917年から1921年の間、ウクライナで、赤軍(共産党)と白軍(ツァーリズム/資本主義)双方の権威主義勢力に抵抗した。『伝統的に、アナキズムの主な支持者は、労働者・農民であった』とピーター=マーシャルは書いている。[Demanding the Impossible, p.652]
アナキズムは、抑圧された側が自由を求めて闘争する中で、そして、その闘争をすることによって創られたのである。例えば、クロポトキンにとって『アナキズムは日常闘争に起源を持っていた』そして『何か大きな実践的教訓に影響を受ける度に、アナキズム運動は新しくなった。アナキズムの起源は、生活それ自体の教えにあったのだ。』[Evolution and Environment, p. 58 and p. 57] プルードンにとって、その相互主義思想の『証拠』は、『様々な労働者組織』の『現在の実践、革命的実践』にあり、『こうした組織はパリとリヨンで自発的に形成され、クレジット組織と労働組織とが全く同じ意味だ(ということを示しているのである)。』[No Gods, No Masters, vol. 1, pp. 59-60] 実際、ある歴史家が示しているように、『プルードンの連合的理想とリヨンの相互主義者のプログラムとは非常によく似て』おり、『(思想に)顕著な一致』が見られている。『プルードンが自身の建設的プログラムを整合性を持って明言することが出来たのは、リヨンのシルク労働者の実例があったためではないだろうか。彼が支持した社会主義の理想は、既に、こうした労働者によってある程度まで現実のものになっていたのである。』[K. Steven Vincent, Pierre-Joseph Proudhon and the Rise of French Republican Socialism, p. 164]
つまり、アナキズムは自由を求めた闘争と、十全な人間的生活、生き・愛し・楽しむ時間のある生活をおくりたいという願望とから生じるのである。生活からかけ離れ、社会を見下ろす象牙の塔にいて、自分の善悪概念に基づいて判断を下す少数の人々が創り出したものではないのである。むしろ、権威・抑圧・搾取に対する労働者階級の闘争と抵抗の産物だったのだ。アルバート=メルツァーは次のように書いている。
アナキズムそれ自体の理論家などいなかった。アナキズムが、アナキズム哲学の様々な側面を論じる多くの理論家を生み出したのである。アナキズムは行動の中で成立する信条であり続ける。知的思想を実践するといったものではない。よくあることだが、ブルジョア作家は、労働者と農民が既に実践で成し遂げていることに参加し、記録する。そして、ブルジョア歴史家はこの作家を指導者だと見なす。さらに、その後のブルジョア著述家どもが、(このブルジョア歴史家を引用して)これは労働者階級はブルジョア指導者を頼みにしていることを証明するもう一つの実例だと曰うのである。[Anarchism: Arguments for and against, p. 18]
クロポトキンの目には、『アナキズムはその起源を、大衆の創造的・建設的活動に持っている。それは、過去、人間のあらゆる社会機関の中に実現されていたものと同じものであった。そして、こうした様々な社会的機関の外部で、勢力の代表者たちに対する叛逆の中に実現していたものと同じであった。外部勢力の代表者達は、これらの機関に手を掛け、自分達に都合の良いように利用してきたのである。』もっと最近では、『社会主義一般を生み出したものと同じ批判的・革命的抗議行動がアナーキーを生んだ。』アナキズムは、他形態の社会主義とは異なり、『その冒涜の腕を資本主義にだけでなく、資本主義の支柱である法律・権威・国家に対してもあげるのである。』アナキスト著作者が行ったのは、社会一般が持つ様々な進化傾向の分析だけでなく、闘争を行っている労働者階級の経験から導き出された『(アナキズム)原理の一般的表現とその教義の理論的・科学的基盤を成立させる』ことであった。[前掲書, p. 19 and p. 57]
だが、社会における様々なアナキズム的傾向と組織とは、プルードンが1840年に筆を執り、自分はアナキストだと宣言する前から存在していた。特定の政治理論としてのアナキズムは資本主義の勃興と共に生まれた(アナキズムは『18世紀の終わりに出現し、資本と国家とを転覆するという二重の挑戦に着手した』[Peter Marshall, 前掲書, p. 4])。しかし、アナキスト著作者は様々なリバータリアン傾向に関して歴史を分析している。例えば、クロポトキンは『いつの時代でも、アナキストと国家主義者がいた』と論じている [前掲書, p. 16]。「相互扶助論 Mutual Aid」(とその他の著作)において、クロポトキンはこれまでの様々な社会が持っていたリバータリアン的側面を分析し、アナキズム組織やアナキズムの側面を(ある程度まで)上手く実践していた社会について言及していた。彼は、「公式の」アナキズム運動が創造される以前の時代に遡り、様々な実例がアナキズム的思想傾向を持っているを認め、以下のように論じた。
石器時代という最古の時代から、人間は、仲間のうちの数人が私的権限を獲得できるようになると様々な弊害が生じることに気がついていた。その結果、人々は、原始的氏族・村落コミュニティ・中世ギルド・最終的には中世の自由都市の中に、様々な制度を作り出し、自分たちを征服しに来た余所者や同じ一族の中で私的権力を確立しようとしている人々が自分たちの生活と財産を侵害した場合に抵抗できるようにしたのである。[Anarchism, pp. 158-9]
クロポトキンは、労働者階級民衆の闘争を、こうした昔の民衆組織形態と同じだと見なした。『労働者の団結は、少数者の権力が増加することに対する同じ民衆抵抗の結果であった。この場合は資本家に対する抵抗だったのである。』氏族・村落コミュニティなどもそうであり、1793年の『フランス革命中のパリ「地区」・あらゆる大都市・多くの小規模「コミューン」の著しく独立して自由に連合した活動』もそうであった。[前掲書, p. 159]
政治理論としてのアナキズムは資本主義と近代国家に対する労働者階級の闘争と自主活動の表現であるが、アナキズム思想は人類の歴史を通じて人間行動の中に何度も表現されてきた。例えば、北米などにいる多くの原住民族は、特定の政治理論としてのアナキズムが存在する数千年前から、アナキズムを実践してきた。同様に、アナキズム的な様々な傾向と組織とは全ての大革命に存在していた。幾つかの具体例を挙げれば、米国革命中のニューイングランド地方のタウンミーティング・フランス革命のパリ「地区」・ロシア革命の労働者評議会と工場委員会がそれである(詳しくは、マレイ=ブクチン著、The Third Revolution を参照)。これは当然のことなのである。既に論じたように、アナキズムが権威に対する抵抗の産物だとすれば、権威を持つ社会はいかなるものであれ権威に対する抵抗を引き起こし、様々なアナキズム的傾向を生み出す(そしてもちろん、権威のない社会はアナキズム的にならざるを得ない)のだから。
言い換えれば、アナキズムは、抑圧と搾取に対する闘争の表現であり、現行システムの間違いに関する労働者の経験と分析の一般化であり、より良い未来に向けての希望と夢の表現なのである。この闘争は、それがアナキズムと呼ばれるようになる前から存在していたが、歴史的なアナキズム運動(つまり、自分達の思想をアナキズムと呼び、アナキズム社会を目差すグループ)は本質的に、資本主義と国家に反対し、抑圧と搾取に反対し、自由で平等な個々人からなる自由社会を求めた労働者階級闘争の産物なのである。
Attachments
Comments
セクション B - 何故アナキストは今日の社会システムに異議を唱えるのか?
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
セクション D
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
セクション E - アナキストは生態系諸問題の原因をどのように考えているのか?
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
セクション G
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
セクション I - アナキズム社会はどのようなものになるのか?
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
セクション J - アナキストは何を行うのか?
アナキストのFAQのセクションをPDF形式で
付録:アナーキーのシンボル
アナキズムは、広範で、時として曖昧な政治綱領に対していつも慎重な立場をとっている。その論証は深い。青写真を作ってしまえば、厳格なドグマを創り出すことになり、創造的な反逆魂を窒息させるからだ。同じ方向性に沿い、同じ問題を生じるため、アナキストは他の多くの左翼政治集団に見られる「規律正しい」リーダーシップも拒絶してきた。この論理も重要である。権威に基づいたリーダーシップは、内在的にヒエラルキー的だからだ。アナキストは固定的なものなら何でも忌み嫌うため、シンボルと偶像の重要性も忌み嫌うのだ、ということは論理的に思われる。
付録:ロシア革命
FAQのこの付録では、ロシア革命を、そして、レーニン主義のイデオロギーと実践がこの革命の結果に与えた影響を徹底的に考察する。レーニン主義が革命運動の一部で真面目に受け取られている唯一の理由がロシア革命であることを考えれば、アレクサンダー=バークマンが「ボルシェヴィキの神話」と呼んだことを暴露することは有用である。つまり、革命の特定側面を論じ、レーニン主義がどのようにして革命が持っていた潜在的なリバータリアン的可能性を破壊する手助けをしたのかを正確に示すのである。同時に、ボルシェヴィキの行動について現代のレーニン主義者が一般に述べている言い訳を分析し、それが正論かどうかを見ていく。また、革命の際の特定の出来事(1921年3月のクロンシュタット叛乱やリバータリアンに影響されたマフノ主義運動など)を徹底的に分析し、当時、レーニン主義に対する代案があったのかどうかを検証する。幸運なことに、その答えは、是である。
この付録から明らかになるが、ボルシェヴィキの行動とイデオロギーは革命の発展と変質に決定的影響を与えた。中央主権型トップダウンの国家主義政治ヴィジョン、その(公然たる)国家資本主義経済ヴィジョン、その目的である政党権力と共に、レーニン主義は、ロシア内戦(革命失敗の要因に関する最も一般的なレーニン主義的説明だ)が始まる前に、革命を権威主義的方向に押し進めていた。レーニン主義は、充分皮肉なことに、マルクス主義に対するアナキズムの批判が正しかったことを証明した。アナキストは確信する。ロシア革命の徹底的分析は、革命運動としてのボルシェヴィズムの限界を確認し、世界を変革したいと思っている全ての人々に対して、リバータリアン思想を指し示すであろう。
Comments
ロシア革命中に何が起こったのか?
FAQのこの付録は、ロシア革命史を網羅してはいない。その作業範囲はあまりにも大きすぎる。その代わり、このセクションは、ボルシェヴィキ革命・ボルシェヴィキ体制が本当に社会主義だったのかどうかを評価する上で重要な諸問題に集中する。だが、これが全てではない。レーニン主義者の中には、ボルシェヴィキの政策は社会主義それ自体とはほとんど関係ないが、当時取ることのできた最良の政策だった、と認めている者もいる。従って、このセクションでは、ボルシェヴィキ政策に対する代案の可能性を考察し、実際にボルシェヴィキ政策は必然的なものだったのかどうかも調べる。
よって、この革命の大局的歴史を求めている人は他を参照した方がよい。ここでは、革命とボルシェヴィズムが持つ社会主義的内容を評価する際に重要な諸問題に集中する。この諸問題とはつまり、労働者階級の自主活動と自主組織の発展・ボス(資本家であろうと「アカ」であろうと)に対する労働者の抵抗・敵対グループや敵対政党の活動・労働組合や工場委員会やソヴィエトといった労働者階級組織の運命である。それ以上に、支配政党とその理念の役割についてもある程度まで示し、評価する(革命の敗北に対するボルシェヴィキのイデオロギーが持っていた役割については、「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」で十全に論じる)。
つまり、このセクションは二つのことに関わる。一つはアレクサンダー=バークマンが「ボルシェヴィキの神話」と名付けたこと、もう一つはヴォーリンが「知られざる革命」と呼んだことである(これらの言葉はそれぞれこの革命に関する著書のタイトルである)。ボルシェヴィキのロシアを経験した後、バークマンは、次の結論に達した。『ボルシェヴィキに関する真実を語るべき時である。偽善者の仮面を剥がさねばならない。国際的プロレタリア階級を欺き、一握りの破滅的意志に向かわせる偶像の粘土の足を暴露しなければならない。ボルシェヴィキの神話を破壊しなければならないのだ。』そのようにすることで、彼は、世界規模の革命運動が、ロシア革命の経験から教訓を得る手助けをしようとした。『廃嫡され、奴隷にされた数百万人』のことを考えれば、『この大きな妄想の仮面を剥がすことは絶対に必要なのだ。さもなくば、西洋の労働者は、ロシアの兄弟たちと同じ奈落の底に導かれるであろう。』ボルシェヴィズムは『全く絶対的に失敗した。』そして『その本質を暴露することは、この神話の正体を見破った人々に課せられた責務である。ボルシェヴィズムは過去のものだ。未来は人間とその自由にある。』[The Bolshevik Myth, p. 318 and p. 342]
その後の様々な出来事がバークマンは正しかったと証明した。社会主義はソヴィエトロシアと結び付き、スターリン主義へと転落し、その結果、民衆から見て、社会主義、そして急進的変革それ自体すらもが信用できないものになってしまった。そして、スターリン主義の恐怖を考えれば、やはり、まさに正しかったのだ。多くの急進主義者がバークマンや他のアナキストのような洞察力を持っていれば、社会主義と革命を暴政に結びつけることに対抗し、自由・平等・連帯という理念に根差した本物の社会主義の名において資本主義と戦うという課題に取り組むべく、別種の社会主義、リバータリアン形態の社会主義が勃興したであろう。
だが、スターリン主義の恐怖にも関わらず、社会における急進的変革を求める多くの人々は、レーニン主義に引き寄せられている。この理由の一部は、多くの国々でレーニン主義政党が現在も組織されており、多くの人々が急進的になった際に、最初にそうした組織に出くわすという事実に関係している。また、一部は、様々なレーニン主義の多くが、事実として存在したスターリン主義を非難し、レーニンとトロツキーの下にあった「本物の」レーニン主義ボルシェヴィキ政党の可能性を提起しているためでもある。レーニン主義のこの潮流は、通常、「トロツキー主義」と呼ばれ、多くの分派がある。こうした政党の幾つかでは、トロツキー主義とスターリン主義の違いは微々たるものでしかない。正統派トロツキー主義に近づけば近づくほど、もっとスターリン主義のように見えてくる。ヴィクトル=セルジュは、1930年代のトロツキーの「第四インターナショナル」について次のように記していた。『迫害を受けている人々の中心地で、私は、迫害者(スターリン主義者)と同じ態度に出会った。トロツキー主義は、それが反対の立場をとっているまさにそのスターリン主義と一致する観点の兆候を示していた。「第四インターナショナル」の集団にいる人で、(トロツキーの)計画に反対した人は誰であれ、即座に除名され、非難された。非難の言葉は、ソヴィエト連邦で官僚が我々に対して使った言葉と同じだった。』[Memoirs of a Revolutionary, p. 349] この付録の「ボルシェヴィキ反対派の中に真の代案はあったのか?」のセクション3で論じるように、トロツキーの「左翼反対派」がどれ程まで政治的にスターリン主義と共有していたのかを考えれば、このことは恐らく当然であろう。
他のトロツキー主義政党は、正統派トロツキー主義が持つ悪しき越権行為を避けている。例えば、国際社会主義者と関係する政党は、自身が「下からの社会主義」と呼びたがっていることを擁護しているふりをし、1917年とボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月でボルシェヴィキの民主的展望は表明されたとしている。アナキストは、レーニン主義が「下からの社会主義」と呼びうるかどうかについてはいささか懐疑的である(セクションH.3.3を参照)。ただ、1917年2月から1918年5月終わりのロシア内戦の始まりまでの期間がボルシェヴィズムの本質を示しているという主張に注意を向ける必要がある。それを行うためには、ロシアのアナキスト、ヴォーリンが「知られざる革命」と呼んだことを論じなければならない。
「知られざる革命」とは何だろうか?ヴォーリンは1917年のロシア革命に積極的に参加し、ロシア革命に関する有名な著書のタイトルとしてこの言葉を使った。彼は、この言葉を使って、ほとんど知られていない自立的で創造的な革命的民衆自身の行動を指した。ヴォーリンが論じているように、『革命を研究する方法は知られていない』し、大部分の歴史家は『革命の奥底で静かに起こっているこうした発展を信用せず、無視している。良くても、歴史家はついでのように二言三言付け加える程度である。(だが)重要なのはまさにこうした隠れた事実であり、これが、検討中の出来事と期間に真の光を投げかけてくれるのである。』FAQのこのセクションは、この「知られざる革命」を、『真の自由と社会革命の諸原理(これらをボルシェヴィキ権力は嘲笑し、足下に踏みつけにした)の名の下にボルシェヴィキ権力と戦った』運動を明らかにする。[The Unknown Revolution, p. 19 and p. 437] ヴォーリンは著書の中でクロンシュタット叛乱(「クロンシュタット叛乱とは何か?」)とマフノ主義運動(「何故マフノ主義運動はボルシェヴィズムに対する代案の存在を示しているのか?」)に最高位を与えていた。ここで、我々はその他の運動とこうした運動に対するボルシェヴィキの反応を論じる。
ロシア革命に関するレーニン主義の説明は、驚くべき規模で公的な歴史となっている--大衆の行動よりも政治指導者に関心があるのだ。実際、革命の民衆的側面は、レーニン主義が規定した社会的枠組みに沿って歪められていることが多い。つまり、大衆の役割が強調されているのは、ボルシェヴィキが権力を奪取する前の期間なのである。ここで、典型的なレーニン主義者は、かなりの程度まで、我々がセクション1で要約して示す1917年の歴史に同意することであろう。そして、ボルシェヴィキ党の役割を軽視することについて彼らは明らかに反対するであろう(セクション2で論じるように、この党はレーニン主義理論や現代のレーニン主義実践の前衛党という理念モデルとはほど遠かったのだが)。だが、革命における大衆の役割は賞賛されており、これをボルシェヴィキも支持するであろう。
真の違いが表れるのは、ボルシェヴィキが1917年11月(当時使用されていた旧暦では10月)に権力を掌握してからである。その後、大衆はあっさりと消え失せ、その空虚の中にボルシェヴィキ党の指導部が入り込む。レーニン主義にとって「知られざる革命」は単に止まってしまっただけである。草の根の革命が持っていたダイナミクスについて、特に10月以後のダイナミクスについてはほとんど知られていない。これが悲しい事実である。信じられないように思えるかも知れないが、ボルシェヴィキ政権下での「労働者権力」の現実やソヴィエト・工場委員会・協同組合といった労働者階級諸機関の実績と運命に関心を持っているレーニン主義者はほとんどいないのだ。文書に書かれていることと言えば、権威主義のボルシェヴィキ政策を正当化することを目的とした曖昧な一般論に過ぎない場合が多い。この政策は、こうした労働者階級諸団体を明らかに軽視することを目的としているか、良くても、実行された際に結果的にそうした諸団体を過小評価することになったのだった。
FAQのこのセクションの目的は、ボルシェヴィキ政権下で継続していた「知られざる革命」を明らかにすることである。また、同様に重要なことだが、それに対するボルシェヴィキの反応も明らかにする。このプロセスの一部として、この時期の重要な出来事の幾つか、例えば、外国の介入が持っていた役割と内戦の影響といったことも扱わねばならない。だが、ここではこうした問題の詳細には立ち入らず、その代わり、この付録の「何がロシア革命の変質を引き起こしたのか?」において詳しく取り上げる。と言うのも、大部分のレーニン主義者が、事実とは無関係に、内戦の影響をボルシェヴィキの権威主義の言い訳として使っているからである。この付録の「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」で論じるように、ボルシェヴィズムのイデオロギーはこの役割を充分に果たしていた--これは現代のレーニン主義者が猛烈に否定していることである(ここでも疑う余地のないことなのに、お構いなしなのだ)。このセクションで示すように、ボルシェヴィズムが「知られざる革命」と対立するようになったという考えは断じて成り立たない。ボルシェヴィキのイデオロギーと実践によってこの対立は必然的に生じ、内戦が始まる前から対立していたのだった(この付録の「何がロシア革命の変質を引き起こしたのか?」のセクション3を参照)。
結局、レーニン主義思想が今だに社会主義運動に影響力を持っている理由は、ロシア革命の表面的成功のためである。多くのレーニン主義グループ、主としてトロツキストとトロツキー主義諸分派は、「赤い10月」と史上初めての労働者国家創設を、自身の思想の妥当性を示す具体的実例として指摘する。彼らは、レーニンの「国家と革命 State and Revolution」をレーニン主義が持つ民主的(「リバータリアン」でさえある)性質を証明していると指摘しながら、その一方で同時に、レーニンが創り出した党の独裁を支持し、さらに、独裁体制下で労働者階級の自由と権力が明らかに失われていたことを正当化している。我々は、そうした主張の誤謬を示そうと思う。このセクションから明らかになるだろうが、無名の革命家による以下の要約は完全に正しいのである。
ボルシェヴィズムから受け継いだ革命に関する概念は全て間違っている。
このことに関しては、アナキストの結論が繰り返されているに過ぎない。クロポトキンは1920年に次のように強調していた。
強力な中央集権型国家を基盤にして、一つの政党の独裁という鉄則の下で、共産主義共和国を建設しようというこの試みは、恐ろしい大失敗に終わったと私には思われる。ロシアは、どのようにして共産主義を押し付けてはならないかを教えてくれている。[Guerin, Anarchism, p. 106 で引用]
究極的に、ボルシェヴィズムの経験は大災害だった。ウクライナのマフノ主義者たちが証明したように、ボルシェヴィキのイデオロギーと実践は、実行できる唯一の選択肢だったのではない(この付録の「何故マフノ主義運動はボルシェヴィズムに対する代案の存在を示しているのか?」を参照)。幾つかの代案はあったが、ボルシェヴィキのイデオロギーがそうした代案を使わないように阻止したのである(この付録の様々なサブセクションで代案の可能性について論じる)。言い換えれば、ボルシェヴィキのイデオロギーは、真の革命運動とそれが直面する諸問題に対してふさわしくないのだ。実際、そのイデオロギーと実践とは、ロシア革命が証明しているように、こうした問題を確実に増幅し、悪化させるのである。
悲しいことに、多くの社会主義者はこのことを認識する気になれない。スターリン主義官僚制の害悪を認識してはいても、ボルシェヴィズムのこうした変質は必然であり、外部要因(つまり、ロシア内戦や孤立)によって引き起こされたことを多くの社会主義者は否定する。こうした要因がロシア革命の結果に影響していたことを否定せずとも、官僚制の種子はボルシェヴィキ蜂起の最初の瞬間から存在していた。こうした種子は三つの源泉から生じていた。ボルシェヴィキの政策・国家の性質・支配政党が支持し実施した10月以降の様々な経済協定である。
これから示すように、これら三つの要因が、1918年5月に内戦が勃発するだいぶ前に、新しい「労働者」国家の変質を引き起こしたのである。つまり、革命は、主として孤立や内戦の結果のために、敗北したのではなかった。ボルシェヴィキは、孤立や内戦の結果が確立する機会を持つずっと前から、既に革命を深刻に蝕んでいた。1918年夏に始まった内戦は、その後に残った革命の結果はどのようなものであったのかという点で、確かに被害を出した。とりわけ、ボルシェヴィキは、自身とその政策を二つの害悪の中でもより害悪の少ないものとして見なすことができるようになった。だが、レーニンの体制は、内戦前に既に本物の社会主義諸傾向に対して(国家)資本主義を保護していた。1921年3月のクロンシュタット弾圧は、遅くとも1918年春に始まっていたプロセスの論理帰結に過ぎなかった。このように、孤立と内戦は上手い口実などではない--特に、アナキストは、数十年前にこうしたことがあらゆる革命に影響すると予測していたし、レーニン主義者は内戦と革命は不可避だと自覚するような主義なのだから。同時に、ボルシェヴィキの支配は労働者階級に敵対されていたことも強調せねばならない。労働者階級は集団的抵抗行動を行い、ボルシェヴィキは、困難な情況のために必要となった対策という点ではなく、観念的言葉で自身の政策を正当化した(付録の「何がロシア革命の変質を引き起こしたのか?」を参照)。
最後にもう一点。ボルシェヴィキ体制の「越権行為」を年代順に記すと、レーニン主義者の中には、「それらはまさに右翼が言っているのとそっくりだ」と述べる人々も確実にいよう。恐らく、我々が、太陽は東から昇り西に沈む、と述べたとしても、「右翼が言っているのとそっくり」に聞こえるのだろう。右翼が革命に関わるある種の事実を指摘しているからといって、多少なりともそうした事実が信頼できないものだというわけではない。こうした事実がどのように利用されるかが問題なのである。右翼はこうした事実を利用して社会主義と革命を信頼できないものにする。アナキストはこうした事実を使って、革命を歪めたボルシェヴィキのイデオロギーと実践に反対しながら、リバータリアン社会主義への賛成論を述べ、革命を支持する。同様に、右翼とは異なり、レーニン主義者がボルシェヴィキの権威主義を弁明するために使うよう求めている諸要因(内戦・経済崩壊など)を考慮する。我々は、単に、レーニン主義者の主張に納得しないだけなのである。
言うまでもなく、レーニン主義者の中に自身の論理をスターリン主義に当てはめる者はいない。スターリン体制の様々な事実を記述することでスターリン主義を攻撃することは、「右翼」的に聞こえるのではないだろうか。社会主義は、史上存在した最も恐ろしい独裁体制の一つを擁護すべきだと言うのだろうか?そうだとすれば、社会主義者ではない人々にとってこれはどのように聞こえるだろうか?確実に、彼らは、社会主義とはスターリン主義・独裁・テロなどに関係していると結論付けるのではないか?そうではないとすれば、何故そうではないのか?「右翼のように聞こえる」ことためにレーニン体制の批判は反革命だというのなら、何故これがスターリン主義には当てはまらないのだろうか?単に、レーニンとトロツキーは1920年代初頭に独裁の長にいなかったからだけのことではないのか?責任ある立場にいる個人は、社会にある様々な社会的関係を踏みにじるのだろうか?独裁とワンマン経営は、レーニンが支配しているときには少ないのだろうか?レーニンとトロツキーの擁護者たちは、権威主義政策は内戦と国際資本主義内部での孤立のために必要だった、と指摘する(その一方で、権威主義政策が内戦前に始まり、その後も継続され、ボルシェヴィキのイデオロギーという点で当時正当化されていたという事実を無視している)。スターリンも同じ主張をするかもしれない。
別な反論も提起されるだろう。我々はブルジョア(もっと悪いことにはメンシェヴィキ)の資料を引用しており、だから我々の説明は間違っているのだ、と主張されるかも知れない。その答えとして、次のことを述べねばなるまい。ある体制を判断する際に、純粋にその体制が自身について述べていることだけに基づくわけには行かないのだ。このように、出来事の十全な像を描くためには批判的解説が必要なのである。それ以上に、悲しい事実として、ロシア革命に関するほとんどの--全くとは言わないが--レーニン主義者の説明は、レーニンとトロツキーの体制下での階級的・社会的力学(と闘争)を実際に論じていない。このため、それを論じている資料、つまりボルシェヴィキ体制に共鳴していない歴史家を活用しなければならないのである。もちろん、ボルシェヴィキ体制の分析(もしくは擁護)は、ボルシェヴィキを論駁したり、ボルシェヴィキの限界を示したりすることになり、批判的解説とならざるをえまい。我々の論議で明らかになるだろうが、現代のボルシェヴィキが非常に皮相的に10月以後の階級ダイナミクスについて語る理由は、レーニンの体制がほんの僅かでも社会主義だ、もしくは労働者階級権力に基づいている、と主張することが難しい--不可能でさえある--からなのである。単純に言って、1918年初頭(遅くとも)から、ボルシェヴィキとロシア労働者大衆との衝突が、この体制の一貫した特徴だったのだ。レーニン主義者が無視しない(つまり、無視できない)のは、この衝突が莫大な規模に達したときだけである。こうした場合、クロンシュタット叛乱が証明しているように、歴史はボルシェヴィキ国家を擁護するために歪められてしまうのである(詳細は、「クロンシュタット叛乱とは何か?」を参照)。
レーニン主義者がアナキストを右翼のようだと言って信頼できないものにしようとしている事実は残念だ。実際、これがロシア革命とボルシェヴィズムに関する実質的議論を妨げている(多分、そう意図しているのだろうが)。このことが、レーニン主義を批判を許さないもののままにし、そのことで、ロシアの経験から何の教訓も学べなくしているのである。結局、ボルシェヴィキが選択の余地を持っていなかったのなら、学ぶべき教訓がそこにあるのだろうか?ない。教訓を学べない(明らかに、ボルシェヴィキを真似るということを除き)とすれば、必ずや同じ過ちを繰り返すことになるだろう--この過ちは、一部は時代の客観的情況によって、一部はボルシェヴィキ政策によって説明される。だが、内戦と孤立のようなボルシェヴィキが直面した情況のほとんどが将来の革命でも再度起こり得ることを考えれば、現代のレーニン主義者は単にカール=マルクスが正しかったことを裏付けているに過ぎないのだ--歴史はそれ自体を繰り返す、最初は悲劇として、次には喜劇として。
もちろん、こうした立場はレーニン主義に賛同する人々にとっては素晴らしいものだ。革命の結果との関係を絶ちながら、レーニンとトロツキーを引用し、ボルシェヴィキを革命のパラダイムとして使うことができるようにしてくれるのである。ボルシェヴィキは『必然を美徳にし』た(レーニン主義者であるドニー=グリュックシュタイン[The Tragedy of Bukharin, p. 41]の表現を引用すれば)と主張することで、彼らは自動的に、権力の座にあるボルシェヴィズムの「民主的」本質について自身の主張を証明しなくてもよくなるのである。これは有効なやり方だ。論理的に、そうした証拠が存在し得ず、実際に、逆のことを指摘する多くの証拠が存在しても、幸運な偶然の一致によって無視できるのだから。実際、この観点からすれば、ボルシェヴィキの活動とイデオロギーを賞賛せずに革命を論じることさえ全く意味がない。「運命」(トロツキストのトニー=クリフを引用すれば)のおかげで、その展望を実現できなかったと残念そうに記すればよいのだ。もちろん、これは、ほとんどのレーニン主義の解説が要約していることなのである。つまり、近代のレーニン主義者は、ボルシェヴィキが事を行っている最中も(行った後でさえも)、実際に行ったことでも実際に言ったことでもボルシェヴィキを判断できないのだ。ボルシェヴィキが権力を掌握する前に言っていたこと、行っていたことを賞賛できるだけなのだ。
だが、アナキストはこの立場を問題視する。これは理論と言うよりも宗教のようだ。カール=マルクスが、人は言っていることではなく、行っていることでしか判断できない、と述べたのは正しかった。FAQのこのセクションは、この革命的精神に則って、ロシア革命とその中でのボルシェヴィキの役割を分析する。ボルシェヴィキが権力を握ったときに何を行ったのか、そして、選挙のマニフェストはどうだったのかを分析しなければならない。このセクションで示すように、どちらも格別訴求力はなかったのだ。
最後に記しておかねばならないが、今日のレーニン主義者は、ボルシェヴィキが一旦権力を握った際に行ったことを正当化すべく、様々な主張をしている。こうした主張については、この付録の「何がロシア革命の変質を引き起こしたのか?」で論じる。また、革命中のボルシェヴィキの反革命的役割のイデオロギー的ルーツについては、「ボルシェヴィキのイデオロギーは革命の失敗にどのように寄与したのか?」で論じる。ボルシェヴィキの政策が革命の失敗に寄与していたことは、アナキズムに影響されたマフノ主義運動の実例から見ることができる。マフノ主義運動はロシア内戦の同じ困難な情況で基本的リバータリアン諸原則を適用したのだった(この重要な運動については、「何故マフノ主義運動はボルシェヴィズムに対する代案の存在を示しているのか?」を参照)。
Attachments
Comments
3. ロシア革命は前衛政党が機能することを確かに証明しているのか?
証明していない。全く逆である。前衛主義の歴史を見れば、前衛主義は成功せず、失敗に終わっていることが分かる。実際、「民主的中央集権主義」の提唱者たちが指摘できるのは、自身のモデルの唯一の明白な成功例、つまりロシア革命だけである。レーニン主義者は、前衛党の利用に失敗すれば、必然的に、将来の革命を失敗に終わらせることになる、と警告する。
4. レーニンの「国家と革命」は10月以降に適用されたのか?
一言で言えば、適用されなかった。実際は逆だった。10月以後、ボルシェヴィキはレーニンの「国家と革命」の思想を導入できなかっただけでなく、実際には正反対のことを導入していた。ある歴史家は次のように述べている。
5. ボルシェヴィキはソヴィエト権力を本当に目的にしていたのか?
現代のレーニン主義者にとってボルシェヴィキが「ソヴィエト権力」を支持していたことは自明の理であるかのようだ。例えば、レーニン主義者は、ボルシェヴィキが1917年に「全ての権力を諸ソヴィエトへ」というスローガンを使っていたことをその証拠として指摘しようとする。しかし、ボルシェヴィキにとって、このスローガンは、多くの人々がそういう意味だろうと考えていることとは根本的に異なる意味を持っていた。
訳者ノート 04/06更新
訳者ノート - 無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)をめぐる論争について、鹿児島県立短大の斉藤悦則さんが詳しい解説を書いている。Webでも読めるので、興味のある方は参照されたい。
Comments
I think there's a real risk
I think there's a real risk of the original version of this text being lost, as the website hasn't been updated in over a decade. So it would be great to duplicate all of the text version of it here (I have only had time to back it up in PDF format). So if anyone can help please check out this thread: http://libcom.org/forums/feedback-content/help-backing-japanese-translation-anarchist-faq-19032017